忘れられない日「1月17日」が近づいてきた。
電飾がどこにあるのかはっきりとはわからなかったが、JRの電車に乗って北を見ていればそのうち見えてくるだろうと思っていた。
実際その通りで、神戸の玄関である三ノ宮駅からビルの谷間に電飾が見えた。
3連休最後の夜とあって、公園を訪れる人は少なく、希望の灯りの炎は静かに揺れていた。
私は震災の被災者ではないが、忘れられない思い出がある。
1995年1月17日早朝、私は突き上げるような強い揺れを感じて目が覚めた。
すぐに横揺れに変わり、大きな揺れがしばらく続いた。
すぐにテレビをつけるが詳細はわからない。
当時、私は地元のテレビ局で報道関係の仕事をしており、急いで出社した。
刻々と被害の拡大が伝えられる中、岡山県内の被害状況を取材した。
といっても、新幹線や高速道路が不通になっているくらいで、深刻といえる被害はなかった。
そして、翌日。
東京のキー局からの応援要請を受けて、淡路島の北淡町に入った。
そこには3日間いて、キー局の記者やカメラマンと協力してレポートした。
最終日、少し時間ができたので、周辺の様子を探ろうと車で走っていたとき、野島断層を見つけた。
ようかんを包丁ですぱっと切ったような高さ1メートルほどの断層が田んぼに走っていた。
「こんなきれいな断面になるものか」と驚いた。
近くの家は断層の真上にありながらも、なんとか倒壊は免れていた。
この家は現在、北淡震災記念公園野島断層保存館のメモリアルハウスとして公開されている。
するとキー局から神戸市での取材の要請があり、いったん帰宅して準備をしたあと、神戸へ向かった。
海沿いの道は不通になっている可能性が高かったため、六甲山の北からトンネルをくぐって神戸に入った。
私たちの任務は長田区の兵庫高校で避難している人たちの状況を取材することだった。
そこまでの道で倒壊しているビルを数多く見て、被害の大きさを実感した。
兵庫高校には最も多いときで約3000人が避難していた。
高校の校庭に中継車をとめ、テントを張って中継の態勢を整えた。
それから数日間、体育館に避難している人たちや、周辺の街での出来事を取材しレポートした。
私は現場の責任者という立場だったが、行くにあたり、被災した人から「何しに来たんだ」「おまえら人の不幸を楽しんでいるのか」といった非難の言葉を浴びせられることを覚悟していた。
しかし、そんな言葉は一切なく、「あなたたちが報道してくれるおかげで、支援物資が届く。ありがとう」とか「報道の仕事も大変ね。私たちも頑張るから、あなたたちも頑張って」といった言葉をかけてもらった。
被災した人たちは他人のことなど構っている余裕はなかったはずだ。
厳しい状況にあっても優しい言葉をかけてくれる。
そんな人たちに接し、私は何度も涙を流した。
あの甚大な災害からまもなく24年になろうとしている。
震災の風化が叫ばれて久しい。
私もそれだけ年を取ったが、北淡町、神戸市での記憶は色あせていない。
電飾は1月17日の夜まで点灯されるという
炎は一条だけだが、ガラスに反射して、いくつもの炎のように見える